座 - 学
"the" - GAKU
哲学基礎講座11
テーマ:フッサール現象学の先へ
2021年1月24日(日) 13:30〜
場所|ポート アート&デザイン津山・本館ラウンジ
受講料|1,000円/90分
※事前にメールかお電話にてお申し込み下さい。
〈お問い合わせ先〉
ポート アート&デザイン津山
tel:0868-20-1682
mail:info@port-tsuyama.com
ポート アート&デザイン津山にて隔月開催中の哲学講座「座-学 “the”-GAKU」
「哲学基礎講座」として、哲学者の思想をわかりやすくご紹介し、その思考のエッセンスを学んでいく講座となっております。
今回は、前回の「フッサール現象学」の応用篇としてハイデガー 「世界-内-存在」、ナンシー 「無為の共同体」などをご紹介します。
前回の座-学では、フッサール現象学として、「判断停止」「現象学的還元」「志向性」などをご紹介しました。
それらの概念を活用できるようになると、“私”という主体にとって“世界”はその「存在・意味・価値を、主体の身体・欲望・関心に相関させ」て“生成”し直すことができます。
ところで、そのような“私”にとっての世界(私=世界)とはいったい何か。
私が生きる世界(家族、会社、社会、国家あるいは世界、あるいは環境)とは何か、について、フッサール現象学を発展的に受け継いで考えた哲学者がハイデガーやナンシー達です。
今回の座-学では、彼らの主要概念である、「世界-内-存在」「無為の共同体」などをご紹介して、彼らが切り拓いた新たな地平をみなさんと一緒に探索してみようと思います。
例えば、“友達”は、いつまで“友達”と呼べるのでしょうか?
フッサールやハイデガー、ナンシーを経由すると
私の考えでは、それは
いつでも常にその都度“友達”であり、かつ“友達”でないと言えます。
逆に言うと、主体にとって“友達”とは“友達”という体験であり、その都度「友達になる存在」です。
それは、仮に幼馴染の親友であったとしても、彼はハイデガーやナンシーを経由すると、「友達である」のではなく、その都度、「友達になる」存在です。
つまり、いつでも私にとって“友達”として生成し続ける、あるいはその都度友達でなくなり得る存在だと思われます。
そこでは、いわゆる友達とは常に「“友達”としてある」のではなく、その都度、友達として生成し続けてきた痕跡を持つ何者かであると、ハイデガーやナンシーは考えたように私には思われます。
そうした事情は、家族であれ、会社であれ、社会であれ、国家であれ、あるいはこの世界であれ、変わらないはずです。
私たちはいま、疫病の蔓延の中で不確実な社会とその困難さに直面しつつ生きています。
しかし社会は、「社会である」のではなく、その都度、新たな社会(共同体)になり続ける存在のはずです。
言いかえると、不確実で困難であるからこそ、生成し、新たに維がり得る可能性を秘めた存在のはずです。
ハイデガーやナンシーが考えた共同体の原理のエッセンスを通して、“私たち”という存在は常に新たに解体されつつ維がり続ける“私たち”という存在の地平に開かれるはずです。
今回の座-学では、
前回残された課題を引き継いで、ハイデガーやナンシーの考え方を分かりやすくご紹介し、新たに紡がれ続ける私たち(友人、家族、会社など)の可能性を実験的に探っていこうと思います。
時間があれば、会社や家族の中で利用できるかもしれない実践例もご紹介できればと思います。
一緒に学んでいきましょう。
哲学家・森内勇貴